特定非営利活動法人フェアトレード・ラベル・ジャパン 事務局長 中島佳織 (なかじま かおり) さん
1997年茨城大学卒業後、化学原料メーカー勤務。その後、国際協力NGOに転職し、アフリカ難民支援やフェアトレード事業に携わる。2001年から約1年半、タイ北部チェンマイに駐在し、山岳民族コーヒー生産者支援プロジェクトの立上げと運営に従事。NGOを退職し、2003年からの3年半、ケニア・ナイロビにて日系自動車メーカーのマーケティングとロジスティックス部門に勤務。2007年1月にフェアトレード・ラベル・ジャパンに加わり、2007年6月事務局長に就任。
「この仕事をしている原点ですか?思い当たるものがほとんどないです。本当は、この仕事につながる貴重な体験があって・・・なんて誇れるものがあればいいんでしょうけど(笑)。私の場合は流れるように今の仕事にたどり着いたというのが正直なところなんです。」 インタビューの矢先にそう答え、微笑みを浮かべた女性。
彼女の名前は、中島佳織。
特定非営利活動法人フェアトレード・ラベル・ジャパン事務局長だ。
人には2種類のタイプがあるのだと思う。
自ら将来の目標を明確に定め、やるべきことを逆算し、日々実行していくタイプ。
一方で、先のことよりも目の前のことに誠実に取り組み、一生懸命に積み重ねることで道を開くタイプ。
中島は、後者のタイプに思える。
それこそが彼女を事務局長という立場にさせた。
中島が持つ自然体な雰囲気にすっかり空気が和らぐなかで、インタビューは始まった。
2007年1月
中島は特定非営利活動法人フェアトレード・ラベル・ジャパン(以下:FLJ)の事務局で働くことになった。
それからわずか5ヶ月。中島は6月に事務局長になった。とはいえ、事務局に中島以外のスタッフはいなかった。2008年10月にスタッフが増えて2名になっているが、当時はまさに一人事務局長。様々な種類の仕事を一人だけでさばく日々が続いていた。
現在、中島はフェアトレードの認知度向上のため、講演や討論会への参加をはじめ、様々な活動をしている。
そもそもフェアトレードとは何か。直訳すれば「公平な貿易」。現在のグローバルな国際貿易の仕組みは、経済的にも社会的にも弱い立場の開発途上国の人々にとって、時に「アンフェア」で貧困を拡大させるものだという問題意識から、南北の経済格差を解消する「オルタナティブトレード:もう一つの貿易の形」として始まった運動であり、対話、透明性、敬意を基盤とし、より公平な条件下で国際貿易を行うことを目指す貿易パートナーシップである。FLJでの一番の業務内容は、これらフェアトレード商品の認証ラベルのライセンス業務だ。
たとえば、企業のコーヒーや紅茶などのフェアトレード商品に対する輸入・加工・販売といった様々なニーズに対して、国際フェアトレード基準を遵守しているかの確認を行ったうえで認証ラベルを許可するという仕組みだ。他にも、企業から「A産地のコーヒーで、Bの種類を探しているんだが、在庫はないか」などの相談を受け、コーディネーションをすることも仕事の一部である。
また、すでに認証ラベルを使用している約70社の企業から、3ヶ月に1度程度の頻度で原料についての報告を受けたり、輸入や販売の実績報告を確認し、それに応じたライセンス料を請求する。メディアからも問い合わせが増えた昨今、掲載される原稿に記載されるフェアトレード認証ラベルの表現方法が間違っていないかのチェックなども行う必要がある。このように事務局長の仕事は多岐にわたっている。
このように活動を進める中島だが、悩みも多い。
日本のフェアトレード市場は毎年拡大の傾向にあり、認知度も高まってきているが、
海外に比べたらまだまだの状態だからだ。
FLJの大きな財源であるライセンス料。だが、単にラベルのついた商品が世に出回るだけでは収入にならない。
ライセンス料が請求できる原則は、ラベルを貼って販売した商品の販売量に応じて支払うことになっており、小売価格の1%がライセンス料というのが一般的だという。ここに課題がある。
ライセンス料収入が増えないことには、活動を大きく展開できない。だが活動を大きくするためには消費者に向けてフェアトレードを伝えていかなくてはならない。その活動にはまた費用がかかる。
今後のフェアトレード市場を拡大していくためにも、挑むべき大きな壁といえる。
さて、話を中島の経歴に戻すとしよう。
中島はもともと国際協力や開発といった問題を一切学んでいない。大学時代は教育学部ですごし、その後は民間企業に入社した。国際協力の分野に漠然と進みたいという想いはあったが、地方で生活する中島にとって、文献や情報を入手することは簡単ではなかった 。漠然とNGOの世界で働きたいと思っていたが中島だが、現実は甘くなかった。
社会人経験を持たない中島を受け入れてくれるNGOはなかったのである。
卒業間近に新聞広告で見つけた化学原料メーカーの総務経理職が、中島の社会人デビューだった。
入社して2年半がたったある日。中島は会社を辞めた。
もともと社会人経験を積んだら、自分のやりたいことをやると決めていた。
中島が会社を辞め、次の道へ踏み出すキッカケとなったのもの。それは1冊の詩集との出会いだった。
大学4年生のとき、中島はケニアの難民キャンプにボランティアとして参加していた。
難民が書きつづった詩集を、オーストラリアからきていたボランティアスタッフが自国で出版した後、ケニアの難民キャンプで出版報告をしたのだった。そこに中島とボランティア仲間は偶然立ち会った。その後、中島とボランティア仲間は、その詩集を日本でも出版しようと決意することになる。
メンバー内にいたデザイナーと協力しながら、それから2年かかって自費出版にこぎつけたのだった。
難民の方々の生の声を日本に届ける。
そんな想いで自費出版した詩集の収益金を持ってケニアに戻らなくてはという気持ちがあった。
入社してから2年半。退職の決意を固めた中島は、すぐに会社を辞め、ケニアに旅立った。
当時をこう振り返る。
「会社の人は私がやっていることをわかってくれていたと思います 。本も買ってくれましたしね(笑)
その収益金で難民キャンプに戻ってやりたいことがあると上司に伝えたんです。会社を辞めてすぐ私は現地に向かいました。」
難民キャンプに戻った中島は、本の売上から図書館のソーラーパネルや書籍を寄付した。
難民キャンプから日本に帰国してからは、派遣の仕事についていた。その後、ケニアの難民キャンプにボランティア派遣してくれたNGOのスタッフとなる。
企業で働いていたときに比べ、給料は格段に下がった。
はたして生活に不安はなかったのだろうか?
「NGOの給料だけだとマイナスになってしまうので貯金を切り崩したりしていました。でも、企業で働いていた2年半でがっつり貯めましたので(笑)その貯金で生活していた感じです。」
中島がNGOスタッフとなってしばらくたったある日。タイでのプロジェクトが始まることになり、3ヶ月だけタイにいって欲しいと頼まれた。結局は1年半いることになったのだが、そこで中島は「格差」という問題に直面する。
「プロジェクトに関わるスタッフは全員タイ人でした。同じ職場で同じ仕事。仲間としてやっているにもかかわらず、そこには大きな差がありました。たとえば、私は日本に帰ろうと思えば飛行機にのっていつでも帰れるのに、彼らは日々の生活に苦しんでいたり、子どもが病気をすると出費が厳しいからと給料の前借を頼んでくるんです。アフリカで経験した難民の問題とは違う「経済的な格差」を感じたのはこれが初めてでした。」
タイでフェアトレード事業を展開し、地元にコーヒーショップを作って販売を開始するなか、お店にくる現地駐在日本人の悠々自適な暮らしぶりと職場のタイスタッフが直面している厳しい現実が何度も頭のなかで交錯した。
「日本人の豊かさの裏で、犠牲になっている人達がいるのではないだろうか。」
「難民キャンプでは支援側としていた自分が、今は日本人として「加害者」として存在しているのではないか。」
中島は社会のゆがみに直面していた。
中島のルーツとなる出来事がもう一つある。
以前からの希望であったケニアでの活動に戻るため、タイのプロジェクトを終えたあとNGOを退職し、ケニア人の仲間と新たなNGOを立ち上げるため単身ケニアに向かった。しかし、資金の問題でプロジェクト継続もままならなくなり、食べることができなくなった中島は、現地の「TOYOTA」への就職を決心し、3年間、車の販売をすることになったのだ。
NGOで働いていた時には、自分たちの貯金を切り崩してまで活動をしていた。一方で、TOYOTAという企業は300人もの雇用を生み出し、現地の人々の生活に貢献をしている。
NGOの限界と企業が果たせる役割。
このときの経験こそが、現在のFLJにおいて中島が「企業をいかに巻き込んだ活動を展開するか」という点を大切にする理由となっている。
大学時代やケニアのTOYOTAで働いていたときから、フェアトレードという言葉は耳にすることが多かった。
将来は自分で「雇用を創りだしたい」という想いがあったものの、今までに参加したプロジェクトで知り合った人々の縁もあり、人材がいなくて困っていた当時のFLJに参画することとなった。
とはいえ、仕事は簡単にはいかなかった。
日本でのフェアトレードのラベルについては、賛否両論だ。
「途上国」と一言でいっても貧困の度合いは様々であるし、地域によっても特徴が異なる。
フェアトレードを基準化し商品単位で認証することで、ほんの一部のフェアトレード商品以外は「アンフェア」な取引をしているかもしれない企業を許していいのかといった批判や、基準に該当しない生産者を排除することになるという批判に、中島は何度も直面した。
それでも中島は信念を持って語る。
「ラベルの運動って、ラベルをはることにだけにフォーカスしがちですが、ラベルによるライセンス料があるからできる活動はとても多いのです。たとえば、生産者に対してフェアトレードの意義を伝えるワークショップを 開催したり、生産者が組合になることで収穫量が増えて市場と交渉ができるようになります。また、生産者が認証を維持するのも簡単ではないので、フェアトレード基準の内容や 組合運営とかのノウハウも伝えています。あとは、認証料が払えない生産者には、認証費用の補助も行っているんです。」
このような活動をさらに広げるためには、フェアトレード市場を広げなくてはならない。
それは世界の貿易構造を変えることであり、企業を巻き込み、共に変わっていく必要がある。
ラベルの意義は、企業を巻き込み、市場を広げるためにある。
一定のルールを創り、そのルールにのっとることでフェアトレードに参加できる。
そんな仕組み化こそが、大きな規模で社会を変えていくことにつながるからだ。
中島はつづける。
「市場を広げて貧困を削減することが大前提です。その前提のためにも、企業にイイ顔だけをして付き合うのではなく、同時に、1%しかフェアトレードをやらない企業に対して、5%、10%と増やしていくための働きかけをする。つまり社会を全体的に変えていく努力をし続けなくてはいけないと思います。」
貧困という社会の課題と向き合うこと。それには多くの苦労が伴う。
あらゆるやり方と信念があるがゆえに、そこに批判が生まれることも少なくない。
消費者への普及啓発も必要。そして、企業への働きかけや対応には大きな苦労が付きまとう。
それでも、この仕事に打ち込める中島の原動力はいったい何処からきているのだろうか。
「日々の小さな積み重ねが仕事をやっていて良かったというやりがいにつながっているんです。」
現地の生産現場に足を運び、フェアトレードによって生活が改善された人々に触れあいたいという想いがないわけではない。むしろそうしたいと常に思っている。しかしながら、経営状況はそれを許してはくれない。現在のFLJ事務局の状態では、出張費はかけられないのだ。
だからこそ、嬉しいのが消費者の声だ。
講演後などに中島のもとには、「フェアトレードのことを聞いて考えが変わりました」という消費者の声が届くことも多い。こうした日々の小さな出来事の積み重ねが、中島の大きな原動力となっている。
「貧困 の問題が社会から少しでも少なくなっていくことを目指しています。でも正直、具体的に自分がどう関われるかといわれれば、まずはこのFLJの基盤をしっかり確立し、裾野を広げていくことですね。」
中島の決して背伸びをせず、目の前のことを見据え、着実に積み重ねていく姿勢が伝わってくる。
自分が所属している場所でできることは意外にもたくさんある。
たとえば、それは会社のコーヒーをフェアトレードに変えること。
毎日飲む一杯のコーヒーが、苦しい状況に置かれている人々の生活水準を改善していく。
購買活動で変えられる世界がある。
自分の立ち位置からできる、一歩がある。
一人一人がほんの少しだけ踏み出せば、変えられる世界がそこにある。
中島が自然体で語り続けるフェアトレードの世界は、そんな「可能性」と「勇気」に満ちている。
[ 取材:桑原・後藤・今井 撮影:大司 ]