変えるヒト、変わるヒト。-新しい社会貢献のカタチ-

Teach for Japan準備会(特定非営利活動法人東京都認証済み)代表理事 松田悠介(まつだ ゆうすけ)さん
1983年千葉県生まれ。2006年日本大学文理学部体育学科卒業後、体育科教諭として都内の中高一貫校に勤務。体育を英語で教えるSports Englishカリキュラムを立案。部活指導では都大会の予選でも勝つ事ができなかった陸上部を全国大会に導く。その後、千葉県市川市教育委員会 教育政策課 分析官を経て、2008年9月、ハーバード教育大学院(School Leadership専攻) 修士課程へ入学。卒業後、外資系コンサルティングファームにて人材戦略に従事し、Teach for Japan準備会の創設代表者として現在に至る。

01 プロローグ

「走り続けたいんですよね、ずっと」

自分、陸上選手だったんです。
そう自分のことを語る松田の声は、インタビューを行うテーブルの上を、自信という重みを持ちながら颯爽と駆け抜けた。

松田は常に走り続けてきた。
中学生の時、いじめられた経験から立ち直った時も。教員を目指した時も。ハーバード教育大学院で学ぼうとアメリカへ飛び出した時も。そして、日本でTeach for Japan準備会を立ち上げた今もそれは変わらない。
松田は、今まさにスタートダッシュを切ったかのような速さで自分の掲げたゴールに向かい、この瞬間も走り続けている。「松田教育道」の道のりに、スターターピストルの音は今もなお鳴り響いているのだ。

02 道のりの、はじまり

2009年6月18日。松田は1つのblogを立ち上げた。最初のblogのタイトルは「Teach for Japanへの道」。
そこにはこう記されている。
「Teach for Japanの実現への険しい道のりの始まりです。」

松田は日本で体育教師を2年間務め、市川市の教育委員会での活動を経て、ハーバード教育大学院へ入学した。そこで、出会ったのが教育系NPOとして大成功を収めていたTeach for America(以下TFA)だ。TFAとは、1989年に当事プリンストン大学の4年生であったWendy Kopp(ウェンディ・コップ)が卒業論文のプロジェクトとして考案し、活動を広めた団体だ。大統領が演説の中で話題に触れるほど、アメリカにおいては重要な教育機関として認知され、全米の就職ランキングでも10位以内に入るなどその活動は高い評価を得ている。

TFAでは、大学の卒業生をそのまま教員として採用し、アメリカ中の貧困地区や教育的問題の多い地域の学校に配属する。特色といえるのは、本来「医者」「弁護士」という職業に就く予定であった学生であったり、投資銀行やコンサルティングなどの分野で活躍が予想されるような、いわゆる”優秀”な人材を採用しているということだ。
そこで採用された学生は、2年間担当地区の学校教員として働き、また地域の教育発展に貢献をする。
つまりTFAは教育に従事する予定の人材だけでなく、社会において優秀な人材を教育の現場に引き込むということに成功している団体なのだ。その活動の根本にあるのは、
「この国(アメリカ)の教育の機会の不平等をどうにか解決したい」
「もし、全米の優秀な学生を二年間教員として学校に配属する事ができれば、教育界にどのような素晴らしいインパクトを与えることができるか」という発想なのである。

松田はたまたま大学院に講演に来ていたWendy Koppとの出会いをきっかけに、TFAの存在を知った。
そこで知ったのは、教育というフィールドを通じて、社会的インパクトを作り出しているということ。
「日本で実現したら、絶対に社会的なインパクトを与えられる」
その確信が松田の心の中に芽生えた。
ふと周りを見渡せば、ハーバード教育大学院の1/4はTFAの卒業生でもあった。実際にTFAのプログラムを修了した人にインタビューを取りながら、修士論文”Teach for Americaの日本での実現の可能性について”を書き上げた。

03 ハードルを乗り越える

結論から言おう。修士論文”Teach for Americaの日本での実現の可能性について”における結論は「NO」であった。しかし、それは「諦める」という意味の「NO」ではない。NPOが育つ文化、学生の新卒採用の文化、教員免許取得制度の違い…様々な要因からTFAをそのまま日本で実現できる可能性は、NOだと言えた。しかし、それらの要因は諦めるための材料ではない。TFAを日本で実現させるという道の上にあるハードルであり、それらを乗り越えさえすれば、ゴールへ至る方法は必ずあるのだ。

「NO」という結論を出した松田が、自らTeach for Japanを実現させる道を諦めなかった理由は、彼が中学生の時の話に遡る。そこには、彼の「教育」を志す原体験があった。

現在180センチを越える、その堂々とした風貌からは想像もつかないが、松田は中学生の時は体が小さく、体育も苦手で、同級生からいじめられていた。休み時間になると、体の大きい他のクラスの生徒が松田の元へやってきては、荒っぽい柔道技をかけて満足気に帰っていく。松田自身、悔しい気持ちを抱えてはいたが、抵抗することなく、その状況を「しょうがない」と甘んじて受けていた。

そんな中、体育の先生から問いかけられたことがあった。
「松田、なんでいじめられているか考えたことあるか?」
いじめられている原因、そんなことは考えたこともなかった。

「いじめている方が99%悪い。が、いじめられている方にも1%くらいは原因があるかもしれないよ。」
その言葉は、松田に考えるきっかけを与えた。

もともと松田の両親も、常に松田に「何で?」と問いかけることが多かったという。松田に説明をさせ、考えさせる。そのような環境の下育てられたことも幸いしたのだろう。
松田は必死で考えた。なんで、自分はいじめられるのか?
『身体が小さい』『筋肉もない』『柔道技をかけられても笑っている』

その後、中学生の松田は二つの決心をした。
「じゃあ、身長を高くしよう。そして、筋肉をつけよう。」
松田は徹底的に調べた。まずは身長だ。身長を伸ばすにはどうしたらいいのか?
カルシウムを取るだけでもだめだということが分かった。効果的に身長を伸ばすには、吸収をよくするためにマグネシウムも一緒に取ることが必要だった。それだけではない、睡眠をとる時間帯も重要だ。
毎日、2リットル近くの牛乳を飲み続けた。毎日夜9時に寝た。朝は6時半に起きて学校で筋トレをした。
その結果、面白いくらいに身長が伸びていったという。150センチだった身長は、2~3年かけて180センチにまでなった。
筋肉がついてきて、身体が大きくなると、自然と自分のもとにいじめっ子はこなくなった。
それだけではない、筋肉がついてきたことで体育もできるようになっていった。それまで陸上部では成績が振るわなかった松田が、都大会出場を果たし、都選抜候補にまで選ばれたのだ。
『体育なんて、大っ嫌い。着替えるのもめんどくさい。』
そう言っていた少年が、陸上部の部長となり、体育祭の実行委員長を担うまでになっていた。

体育教師の一言が、松田の人生を変えた。
自分で考え、原因を見つけ、そのハードルを乗り越え、目標を達成する。
そのような成功体験を経て、「必ず道はある」ということを心から確信できる強い自信と行動力を持つことができた。

そして、もう1つ。
『一人でも多くの体育嫌いを、体育好きにしたい』
松田の人生に新たな目標を与えたのだ。
教員という存在は、人の人生を変えられる。
その大きな責任と大きなチャンスという可能性が、松田を「教育の道」へと走らせた。

04 体育教師への道

高校時代、松田は陸上に夢中になりながらも「教育」への思いを持ち続けた。しかし、その思いが決定づけられたのは、大学受験の結果が出て、学校の教員と話をしていた時のことである。
松田は、日本大学の体育学科と有名私立大学の商学部を受験し、両方合格をしていた。
教員は言った。
「当然商学部に行くんだろ」
その時に松田は強く感じたのだ。
『自分は、これだけ強い夢をもっているのに、教員がそんなこと言って…。それでいいの?』
確かに、高校側からすれば一人でも多く「偏差値」の高い大学に入学をしてほしい、という思惑があるだろう。でもそうした大人側の論理で、体育教師になりたいという自分の夢を諦め、進路を決めていいのか。
これこそ、大きな教育問題なんじゃないのか?

彼は自分の進路を自分で選んだ。日本大学の体育学科へ進学し、『一人でも多くの体育嫌いを、体育好きにしたい』という思いの実現へ向け走り出したのだ。
そして教職課程を経て、教師への道を歩み始めることとなるが、ここでも松田は現実の壁と対峙することになる。

05 自分の学校をつくる

自らの受けた教育、そして大学での教職課程を通じて、松田はある思いを抱きはじめた。
「日本の英語教育は、英語嫌いを作っている。コミュニケーションのできる楽しさが伝わらない」
「『勉強を教えること』が重要なのではない、『勉強へのモチベーション』をつかませることこそ重要なのではないか」
大学3年生の時、こうした思いから松田は自ら学習教室を立ち上げた。

そこでは、勉強を教えること以上に「夢の持ち方、モチベーションの持ち方、それらを具現化する方法を考えさせる」ことに注力した。『自分の夢は何なのか』『そのためには、どんな学校でどんなことを学ぶ必要があるのか』「なぜ勉強しなければいけないのか」、その理由を生徒たち自らに考えさせたのだ。

松田の学習教室で学んだ生徒達は、皆「勉強しなければいけない理由」を考えた。「何のために、自分は勉強をがんばるのか」そのモチベーションを見つけた生徒たちは、自分から勉強に向かうようになった。2年間、松田の元で学んだ生徒達8名は皆、第一志望の学校へと受かっていった。
その姿を見て松田は強く感じた。
「既存の教育だけに頼るのではなく、自分でやっていく必要があるんだ」

その思いを胸に、松田は晴れて中学校の体育教師になった。
既存の方法にとらわれず、自らの思いを実現させようと、様々な工夫をこらした。
体育教師にも関わらず、英語で体育の授業を実践した。例えば、バスケットボールの授業では外国人になりきって、英語コミュニケーションを取りながら試合をさせる。英語教員に最近授業で学んだ英単語を聞き、その単語を実際に使用する機会を創造していった。
生徒たちは、「その単語、さっき授業で習ったよ!」と、英単語を学ぶ楽しさに目覚め、松田の授業は生徒から認められるようになっていった。
しかし、学校側の反応は違った。賛同してくれる教員がいる中で、一部の教員からは『勝手にやってろよ』という雰囲気、中にはあからさまに煙たがる教員もいた。教員の給料というのは、決して悪くない。学校にもよるが、生徒が休みの期間は同じように休みをとることもできる。しかし、本当に「子どものために」と行動している教員がどのくらいいるのか。
その思いが松田の中で膨らんでいった。子どものために、と言葉だけではなく行動できる教員が少ない環境下、自分はあと40年間教師を続けられるだろうか、いつか自分も同じように潰れてしまうのではないか。

「このままではだめだ。飛び出そう。」

松田は1つ決心をした。
自分の想いをつぶされてしまう環境にいるくらいであれば、自分の想いを存分に生かせる学校を作ろう。
自分の想いに共感し、共に行動してくれる仲間を集め、その教育を受けたいと思う生徒に対して120%の力で教えれば良いじゃないか。
松田は安定した学校教員という職場を飛び出した。自分の学校を作るのだ、と。

06 ハーバードからビジネスの世界へ

松田は自らの教育観の軸ともなる「被抑圧者の教育学」で著名なパウロ・フレイレの研究を行っている教授がいるハーバード教育大学院で学ぶことを決めた。
働きながら、毎日勉強した。「今日はもう怠けてしまおうか」と幾度となく思った。その度に、部屋に貼り出した「ハーバード合格」の文字が目に入った。

2007年5月17日、松田はblogを立ち上げた「体育教師がハーバードを目指す遠き道のり」。その最初のページにはこう書いてある。
「ワクワクしていてしょうがいない!ブログについてではありません。世界最高峰の大学院を目指すという事がです。」
そして2008年7月14日のblog。
「今日は自分の誕生日。ついに25歳になりました。(中略)明日、ついにボストンに飛び立ちます。」
松田は、自分の立てた目標を成し遂げ、新たなスタートを切り始めた。

ハーバードでの充実した日々が終わりを迎える頃、大学院卒業後の進路を考えるにあたり、松田は自分の学校をつくるためには何が必要なのか考え抜いた。その答えは、ビジネスの世界を学ぶことだった。
「学校運営というのは中小企業経営と同じです。大きな学校であれば、100名近くの教員という従業員を抱え、2,000人の顧客を抱えることになる。そして、その中では教育の質、つまり顧客満足度を高めることが
重要になってくる。従業員のマネジメントも必要だ、どのように効率の良い業務を行い、より良いサービスを提供するのか。」 松田は外資系コンサルティングファームに就職した。

07 Teach for Japanの実現に向けて

松田は7月14日をもって外資系コンサルティングファームを退職し、Teach for Japan準備会の代表を務め、精力的に活動を行う事になっている。誕生日の翌日にまた大きなレースが始まる。

日本の教員、またその制度には様々な問題があることも改めて感じた。フィンランドでは、子ども達の『なりたい職業』第一位が教員だという。教育を受けた人々は、その環境、その出会いに強い感謝をして「自分も教員になりたい」と強く思うのだ。日本の現状とを見比べ、「教員をもっとカッコ良くしたいんです」と松田は語る。

そのためには、教員の質を高める必要がある。そしてそれは、教育の中だけの問題ではない。社会人として、大人として、カッコ良い人間であること。それには、教育という限られた世界の中だけでなく、ビジネス、教育以外の仕事に従事する社会人、つまり社会全体としての底上げが必要だ。「教える」ということは、勉強を教えることだけではない。「夢を追いかける方法」を伝えることこそ、重要なことではないのか。
まだ日本ではそのやり方が確立されていない。だからこそ、Teach for Japanを通じて教育の本質的な部分に入り込んでいきたいと考えている。夢を追いかける方法を知っている人と触れ合っているからこそ、子どもは夢を追いかけ続ける事ができるのだ。

中学生の時に出会った体育教師のことを振り返って、松田は言った。
「その体育教師は、考えろ、というだけでなく、身長を伸ばす方法や筋肉をつける方法、一緒になって調べてくれた。教員がすべて答えを提示し、導くわけではなく、そばに寄り添いサポートをしてくれたのです」
ゴール設定の方法を教え、ゴールを設定させる。そしてそのための道を見つけ出すサポートをする。このように、子どもの成長に自分を投資することを継続的に行える人。何より、教育に対する情熱を、強く持ち続けられる人。それが、今松田が描く理想の教員像だ。

その理想の実現のために、Teach for Japan準備会の活動を通じてやりたいことはたくさんある。
「Teach for Japanではプラットフォームを作りたい。ビジネス×教育の場、社会人×教員の場、教育に想いのある人が集まる場、ナレッジシェアをする場がもっと必要だと思っています。」

「アメリカでは教員にリーダーシップが必要という考えがあるのですが、それはビジネスの場でも生きる考えなんです。例えば、社会人が2年間学校で教えていいと思う。もちろん、その逆もあります。社会人にはリーダーシップのある教員になる資質が充分にある。企業でのインプットを、学校でのアウトプットにすることだって絶対可能なんです。」

今の「教員になるための制度」にも疑問を持っているという。
「教職課程というのは、教員になるための最良のトレーニング過程だとは思えないんです。自分自身、座学で学んだこと以上に、自ら学習塾を立ち上げた際の経験が今に生きています。」

教員をやる醍醐味。それは机上で学ぶことから分かるのではなく、現場で子どもたちと真剣に向き合うからこそわかるのだ。しかし、現状の教職課程では、現場で子どもたちと触れ合う時間は大学4年で初めて訪れる。その時期には、就職活動が始まり自分の進路を決定しなければいけないというのに、現場で教育の醍醐味を感じられる時間が、あまりにも限られすぎている。
松田は現在、夏休みの間に子どもへの学習支援を通じて教員を養成するプログラムの実施を考えている。教員に興味を持っているが、教職を持っていないという層に機会を提供したいと言う。また早い時期に現場で子どもたちと触れ合う機会を作ることで、大学4年生で初めて現場に触れ「私に教員は合わない。」と感じてしまう人をなくすことにも繋がると考えられる。

松田は言う。「TFAの教職プログラムを作りたい。既存の教員も含め、新卒の学生、社会人がもっと関われるような。ビジネス×教育の要素ももっと取り入れたいんです。また、情熱のある優秀な人材を必要とする子どもに救いの手を差し伸べられるような団体になりたいですね。教育問題を社会全体で解決するんだ、という社会的インパクトを創っていきたいです」

08 『松田教育道』

「まだアイデアベースだけど」
と言って語る松田の言葉には、どれも重みがあり、真実味があった。
「これらはきっと現実のものとなるんだろう」そのような未来を感じさせた。

松田教育道を一言で言うと何なのか。松田は応じた。
「まだ、一言では言えないんです。でも、自分は教育に感謝している。間違いなく、そのおかげで今の自分がいる。『教育は人なり』だと思う。ハードの提供だけが教育ではなくて、もっと色々なことを教えることのできる子どものロールモデルとなりうる教員が、もっと世の中に出ていくべきだと思っているんです。」

「いつかはわからないけど、絶対に自分の学校をつくりたい。それは、松田教育道の集大成となるものです。」

『教育は、共育』
子ども達と共に、教員も、社会も育まれる。
そんな世の中の実現を、松田なら必ず、やり遂げるだろう。

09 エピローグ

「これから先も走り続ける人間でありたい。自分にはそれがあっている。」
インタビューの最後、松田はそう言った。

目指すゴールは常にアップデートされ、また新たなレーンが目の前に用意される。
その都度なり響くスターターピストルの音は止むことはなく、その響きは前進するための力になる。
そして、一歩ずつ走り抜ける道のりこそが、松田教育道を実現していく過程なのだ。

インタビュー後、彼は1つの質問を発した。
「皆さんは、どんなことをやりたいんですか?」
1人ずつ質問に答える私たちの目を捉えながら、松田は嬉しそうに頷いて言った。

「いいですね。それやりましょうよ!」

松田悠介さんから、あなたへのメッセージ

[ 取材:大司・後藤 撮影:種村 ]

当サイト「もんじゅ」は社会問題に関心があり、自分が何かがしたいと考えている人と、そんな個人のスキルや経験を必要としている団体(NPO・NGOなど)をつなげるボランティアサイトです。

あなたにあったボランティア・パラレルキャリアを探してみよう。

特集 バックナンバー