変えるヒト、変わるヒト。-新しい社会貢献のカタチ-

株式会社Granma(グランマ) 代表取締役社長 本村拓人(もとむらたくと)さん

1984年4 月28 日生まれ。高校卒業後、愛知県にて派遣会社を興す。一年間の会社経営を経験した後、ビジネスへの関心を強め、予てより計画していた米国NY への留学を実現。NY State University of Morrisville へ進学する。在学中、バングラディッシュの都市ダッカから人類発祥の地であるアフリカ大陸を陸路で歩みきる。こうした放浪中に資本主義の残した正と負の軌跡を直視した経験から、世界で約40億人いると言われているBOP(ベース・オブ・ザ・ピラミッド)=年間の所得が「3000ドル未満」の層を「マーケット」と捉え、こうした人たちの潜在的なニーズを現場で観察し、収集しながら安価で、なおかつ生活向上に役立つ商品の流通から開発までを提供する事業を開始する。2009年4月に株式会社Granma(グランマ)を設立。CSRに関連する企業ブランディングやプロモーションに資するWEBサイトの作成や動画制作等を行う傍ら、BOP層に特化したマーケティング活動を進めている。

プロローグ

1956年12月2日。世界を変えた1隻のボートがキューバに上陸した。ボートの名前はグランマ号。わずか8人乗りのボートには、キューバ革命で知られるフィデル・カストロや、世界中で今なお愛され続ける革命家チェ・ゲバラが、82名の同志とともに乗船していた。キューバを改革する大きな一歩となったこの船の出港から約半世紀。ミッションやビジョンを明確に抱き、志を共にした仲間と社会変革を成し遂げる。そんな想いを胸に秘め、25歳の青年は会社を立ち上げた。株式会社Granma(以下:グランマ)の誕生である。

日本の町工場が世界の貧困層とつながる日

グランマのスローガンは、BOP層に特化した商社を創ることだ。
本村は会社のビジョンを力強く語る。

「私たちが、一番やりたいこと。それは、技術力のある日本の企業と一緒にBOP層が本当に必要としている製品やサービスを創っていくことです。」

現在、BOP層に向けた商品には、主にアフリカにおけるマラリア対策の防虫蚊帳である“オリセットネット”や、安全な飲み水を確保できない地域に住んでいる人のためのストロー型浄水器“ライフストロー”等が有名である。だが、現状ではこうした安価で生活の改善につながるような商品やサービスが、それを必要としている貧困層の視点で作られることは少ない。BOPについての理解が一般的に進んでいないことが一因だ。だからこそ、途上国で生活をする現地の人々のニーズを引き出し、日本の技術力のある企業にそれらを伝える活動を展開していきたいと考えている。バングラデシュにはサイバーカフェという施設がある。これは日本でいうインターネットカフェに似たものだが、途上国における富裕層がインターネットを利用している場所である。現在、このサイバーカフェは都市部には存在するものの、農村部にはほとんど見られない。本村は、こうした空間を農村部の村々に設置することにより、現地の人々が必要とする製品やサービスに対する生の声を発信できる仕組みを作りたいと考えているという。誰もが利用できる情報インフラが整備されることにより、BOP層のニーズを発信し、くみ上げ、日本の町工場や技術力のある企業につなげる。こうして作られた商品やサービスが彼らの生活を豊かに変えていく。グランマでは、その仕掛け作りに現在挑戦中だ。

挫折

自分のやりたいことに集中するために会社まで立ち上げた本村だが、その原動力はどこから来ているのだろうか。それは挫折から始まった。

16歳の頃、本村はサッカーに夢中だった。サッカーが思う存分できる高校。そんな基準で選んだ高校で、彼は大きな挫折を味わうこととなる。周囲のレベルの高さに戸惑い、自信を失ったのだった。わずか1ヶ月で大好きだったサッカー人生に自ら幕を引いてしまった。その後、目標を失った本村はアメリカに渡ることとなる。偶然叔母がアメリカにいたため、薦められてアメリカの語学学校にいくことを決意したのだった。アメリカに渡った後に、学校に通いながら様々なビジネスの話を聞く機会に恵まれた。一番興味を惹かれたこと。それは、「経営者は自分の時間を自ら創りだすことができる」ということだった。ビジネスに通じた叔父から毎日のようにビジネスの様々な話を聞かされる中でのアメリカ生活は、「経営者になる」という新たな目標をもたらしたのだった。

帰国後、様々な経営者の言葉に影響を受けながら、18歳の本村の心には、自分でセールスに挑戦してみたいという気持ちが生まれていた。
当時、知り合いの社長の下で営業を経験したが、数字に追われる生活には3ヶ月で嫌気が差したという。辞めようと決意を固めつつあった心に、一つの言葉が突き刺さった。

「このまま途中で投げ出して本当にいいのか。全てが中途半端になってしまう。」

サッカーもそうだった。自分で限界を設定し、挑戦しなかった自分がいた。もう繰り返したくない。

自分が誰かの下で働くのではなく、組織のトップとなり、責任を持ってもう一度必死で挑戦することを本村は決心した。当時、勤めていた会社の看板を借り、名古屋に乗り込み、派遣会社を経営することになる。

派遣会社の経営は、まさに現実の厳しさとの闘いだった。当時借りていたわずか8畳の部屋に20名のスタッフが必死で営業活動を繰り返す日々だった。当時の状況を本村は振り返る。

「当時は、ビジネスの知識もほとんどありませんでした。効率も知らない。お金は回っていかない。三重や岐阜といった東海地域に人を派遣していたので、夜中の12時頃に帰ってきて、朝までミーティングをする毎日でした。幸いスタッフの多くは暴走族あがりでしたから、知識はそれほどなくても根性はある。それでも当時、会社からもらえた給料は月5万円。あとは自分が派遣スタッフとなって稼いでいました。」

2年間会社は続いた。が、経営を軌道に乗せることは簡単ではなかった。
会社の看板を借りてスタートするのではなく、最初から自分がリスクを背負って動かない限り、経営者として自分で時間を創りだすことも、スタッフの給料を支払っていくことできないと痛感する。ビジネスのフレームワークも学ぶ必要があった。名古屋での“失敗”は、多くの経営のヒントを本村にもたらしたのだった。この経験が基になり、本村はビジネスのフレームワークを学びに、再びアメリカへ旅立つのだった。

人生の転機

アメリカに渡った本村は、ニューヨークの小さなカレッジに入学した。ここで人生の転機を迎えることとなる。

友人に誘われた世界放浪で訪れた、インドでの経験だ。もともと、学校の一般教養で社会学に触れる機会があり、貧困問題などに興味を持ち始めていたという。アメリカでの生活では実感がなかった貧困というテーマが、インドではまさに目の前に広がっていた。

道行く観光客にお金をせがむ物乞いの子ども達。本村がお金を渡すと、子ども達は駆け出していった。近くにいる大人にお金を渡し、次の観光客にお金をせがみに戻っていく風景。大きな疑問を胸にアメリカに帰国した本村を待っていたのは、一冊の本との出会いだった。

友人が紹介してくれたその本には、「貧困なき世界を目指す銀行家」という文字があった。マイクロファイナンスで知られるノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の自伝だ。彼は、貧困層の女性たちに無担保で小額の資金を貸し出すことで、資金を得た女性たちが小規模のビジネスを開始する準備を行うことができる「マイクロファイナンス」を行うグラミン銀行をバングラデシュで創設。現在、このプログラムは全世界へと広がりを見せている。

本と出会って1週間後。本村はバングラデシュにいた。
グラミン銀行という組織を知りたい。ムハマド・ユヌス氏に直接会って話がしたい。そんな純粋な想いが彼を動かしていた。ユヌス氏本人に会うことは叶わなかったが、バングラデシュでマイクロファイナンスが行われている村々を見て回ることで、行われる融資の現状や課題も見えてきたという。後に彼は、このバングラデュにおいても運命を変える出会いを果たすことになる。ウェイストコンサーン代表 マクスード・シンハ氏との出会いだ。彼は1995年、ゴミを肥料に変換させる事業をスタートさせ、貧困に苦しむバングラディッシュにおいて350万もの雇用を作り出している。(※首都ダッカの人口は現在1300万人)突撃取材の上、3時間もの間彼の話を聞くことに成功した。

本村は、当時の様子を思い出しながら興奮気味に語りだした。

「これこそが僕の目指すべき、「社会起業家」だと思いました。当時、日本でも「社会起業家」が登場してきていましたが、経済サイクルは全くといっていいほどうまく回っていませんでした。一方で、シンハ氏は何百億円という金額を動かしていたのです。」

本村は彼をモデルメーカーと呼ぶ。1つのモデルができれば、世界に広げて適用していくことが可能だからだ。現に、シンハ氏のビジネスモデルは、ベトナム、チュニジア、アジア等に広がっている。社会を変革するために必要なことを本村はシンハ氏から学んだ。それは「徹底的なリサーチ(研究)」、「資金調達」、「事業を起こす動機の明確化」を持つ大切さだという。

帰国。そして独立へ

帰国後の本村は制作会社で働き始めた。クリエイティブな力を作って社会をより良くしたい。そんな制作会社社長の想いに感化され、履歴書を持参したのだった。ディレクターとして採用された後、海外に比べてあまり知られていない日本の「社会起業家」に直接会って、世の中に紹介していく企画を会社に提案した。「社会起業家」を始め、NPO、NGO、企業のCSR担当者への取材記事を公開しているオンラインマガジン「Whose Real Is It?」だ。

その後、制作会社の内で展開していたこの企画を、「Cause Project」と銘打ち、社外で発展させていくことになる。当初は1人でやっていたプロジェクトが、現在は数十名にまでメンバーの数も膨れ上がった。「会社で味わえない体験ができる」という理由から、大企業からボランティアで参加するメンバーも多くなっていった。このことにヒントを得た本村は、「職場を変えずに働き方を進化させる」をテーマに、様々な働き方をする人達が集う場所として、交流会を行うようになる。

本村は語る。

「人間はなぜ、社会的な活動をすると活き活きとするのかという問いがあります。この社会的な活動をするモチベーションをソーシャルモチベーション、略して“ソシモ”と呼んでいます。本来、ソーシャルモチベーションは全ての人が持っていると思うのです。だからこそ、それをアウトプットできる場所を作ろうと始めたのがソシモサロンです。」

2009年4月。当初から予定をしていた独立を果たした後、ソシモサロンはグランマの収益事業の一つとして、定期的に開催されるイベントとして拡大を続けている。

「想像」を「創造」できる未来を目指して。

「貧困」を「イマジネーションの枯渇」だと本村は定義する。
圧倒的な情報量の不足。それは、世界を旅する中で未来を描けない子ども達をはじめ、途上国に生きる人々に触れてきた中で痛烈に感じてきたことだ。彼らは一体何を必要としているのか。彼らには一体何が足りないのか。本村はその溝を埋めようとしている。

サイバーカフェを多くの国に展開すること。
途上国に生きる人々の声と日本の町工場をつなげること。

未だかつて知ることのなかったアイデアを手に入れたときの感動と興奮を、未だアイデアという概念が行き届いていない地域に運んでいけるように。

現地の土を踏み、そこで生きる人々の息遣いに触れ、五感で感じてきた世界を、より良い未来に変えるために、グランマと仲間たちは航海を続ける。

本村個人の夢であり、会社の夢でもある
「社会の“最大多数の最大幸福”を実現するプラットフォーム」が創造される日は遠くない。

本村拓人さんから、あなたへのメッセージ

株式会社Granma(グランマ)
>> ウェブサイト

[ 取材:桑原・後藤 撮影:種村 ]

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